悪者を作る前に

13人が「死傷者多数」認識=懇親会で話題−3次会も、JR西のボウリング問題
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050505-00000916-jij-soci
僕が最近、速報だけのニュースが嫌になっている理由を考えてみた。話題について行けないというのもあるけれど、多分、薄っぺらいニュースを大量に流されることに飽きてきたのだと思う。
マスコミはまず悪者を見極める。でっちあげてでも、まず悪者を見つける。それは個人だけでなく、制度だったり組織だったりするのだけど。一般に理解されやすく、できるだけ悪者らしい悪者を捜すのである。で、その悪者を徹底的に叩く。魔女狩りの時の狂った民衆のように、悪いところを漁りたおす。そして悪者が死ぬか世間が飽きるまで叩いておしまい。悪者は世間がスッキリするための人身御供であり、それ以上でもそれ以下でもない。今回の鉄道脱線事故はけっこう多くの記事を読むことができたけど、最初から運転手のミス奪回の焦りで事故が起きたと思いこんで書いているのだと思う。それが一番悪者らしいオチなんだということだろう。読んでいる方も、そう思わされている。それでいいと思っているようにも感じる。鉄道全体の不信になるよりは個人が悪者としていっそ死んでしまったほうが多数の都合がよい。そうすれば悪者もかわいそうだなぁということで、同情がうやむやを生んでくれる。
そして実際運転手は死んでしまっていた。とにかく死者を悪く言えないので、今度は会社だ。叩くのならば、できれば力の弱い一般社員がよろしい。ボウリング大会やってたとか、そのまま三次会までやったとかいう馬鹿馬鹿しいことがニュースになるのはそのためだろうと思う。
重要だとか必要だとかではなく、一番叩きやすい所を叩く。それは公共のリンチであって報道ではないだろうよ。なにしろ根本的な問題は解決しないもの。なんとなく世間側が、これに凝りて悪事は二度と働かないのだろうなぁとボンヤリ思ってうやむやになるだけで。その頃には別の悪者をリンチにかけることに夢中か、原因追及など二の次で、悲しみの遺族や特筆すべき死者の経歴などの人情話でお茶を濁すことになる。あとは流行に乗って、バスや飛行機などの普段なら書かないような事故やミスを、さも大問題のように書いてみるとかしてお終い。なんだそりゃ、みたいな。
もちろん、鉄道全体の不信を煽るのは社会的にあまりよろしくないのは分かるんだけども、そうならないようにストイックに原因を追及したりするのが報道なんじゃないのかと。ヒステリックなものを見させられれば、見た方もヒステリックになるでしょうに。それは理想なんだけど、いろいろ仕方ないという言い訳で理想から離れすぎなんじゃないかと思うわけです。