正しいだけの存在は

いじわるで賢い姑が嫁をいびる時に発する言葉は、論理的に正しいし命令としても当然であったりする。ただ、目的がいびることにあるので、命令される方はそれを察知して凹むのである。人は論理のみで判断するわけではない。好きな人と嫌いな人がまったく同じことを言っても、こちらの内心も含めた反応は違うものになるだろう。つまり、どんなに正しい言葉を並べても、そこに透けて見える本性が問題なら、有害であり、時として滑稽でもある。
いじわるで賢い姑の論理に論理で対抗するのはそうとう難しい。まず嫁より姑のほうが立場が上だ。すでに何割か負けている。そしてそもそも言っていること自体は正しいのだ。それでも言われっぱなしだとストレスで胃に穴があく。どうしましょうか。
基本的には、論理的には合っているけど人間として酷い、という事実を感じてもらうのが一番だと思う。言っていること自体は正しいのだから、論理フィールドで戦っても意味がないわけだ。そして、その人間性の酷さへの攻撃はやりすぎてもいけない。もちろん、それはこちらの人間性の問題になるからだ。
なぜこんなことを書いているかと言うと、ブログの引用やコメントで、正論をふりかざしたネチネチ攻撃をいくつか見てしまったからだ。細部の正当性を問題にするならば、それを書いている人はとても正しい。だが、その動機というものの正当性が見えない。部分的にムカついたとかイラついたからとしか考えようのないはじまりなのだ。数学の授業で教師の言葉遣いについて延々と意義を唱えるようなかんじだろうか。正しいだけ。意固地なまでに正しいだけの存在は、停滞という悪の面が大きすぎて正しさをちゃんと伝えられない無用の長物だと思うわけです。