肯定する残像

そろそろ子どもを叱るということについて、真剣に考えなければいけないなと思ってきた。タロももうすぐ一歳だし、行動範囲やできることが増えてきたのでね。駄目なことといいことの区別をつけなくてはと思ったのです。
基本的に放任主義で育ったもんで、自分の子どももそう育てるつもりなんだけど。何もしないのは放任じゃなくて無責任。まぁ、僕の感覚で善し悪しを決めてしまって、それを強制的に植え付けるわけだから、その責任たるや半端じゃないけども。それをやらなきゃいけないのが親でしょう。
それでいろいろ考えて、一つ決めた指針が「肯定する残像を残す」です。特に、否定するときに、きちんと肯定すべきものを肯定する人間だと知っててもらわないと、否定がただの我が儘に見えてしまうだろうと。何をしても否定されると受け取られたら、きっとこちらの言葉は通じなくなってしまう。
ネットで、心ないコメント合戦を見るたびに感じていたことを形にしてみました。正しいとか間違ってるとかの前に、届く言葉を使っているか、届けられる存在でいられるか。話をちゃんと聞いてあげるのも一つの肯定の形だと思います。それをしないとコミュニケーションが立ち上がらない。コミュニケーションが立ち上がっていない状態で放たれる言葉は不良品で、市場に出る前に捨てられるゴミです。ネットでは生産の現場にいるからゴミも見えるけど、使い物にならないのは同じ。食料品じゃないから規格外でも食えるなんてことはありません。ゴミは生産された瞬間からいびつで不快で、やがて腐食していくのですな。
我が子にゴミを投げつけることはできない。だから、肯定する残像を残せるようにガンバらねば。