この現状をなんと名付けようか。

何も決まらない議論は無駄なのですが、それをちゃんと言葉で書いてあるので感動しつつ引用。

 特定の事件について、二つの対立する勢力が、互いに相容れない見解をぶつけあっている場合、議論は、空洞化する。歩み寄る姿勢を持たない論争は、平行線どころか、より対立を深める方向で推移するものなのだ。
 特に、対立する論敵同士が、事件を政治的に利用する目的で自説を展開した場合、両者の議論は、両極端に向かってむしろ分裂して行く。論敵がフェアな相手でないと判断した論者は、自分だけがフェアな態度でいると、論争に負けてしまうと考えて、結果、自らもアンフェアな態度で議論に臨むようになる。かくしてディベートは荒れる。証言は捏造され、証拠は隠蔽され、データは恣意的に引用され、テーブルをはさんだ両者は、相手を貶めることだけを目的に言辞を弄するようになる。
 時間がたつと、真相は事件の発生直後よりさらにわかりにくくなっている。
わかりにくいだけではない。一般の人間にとっては、その事件に関わること自体がリスクになる。すなわち、「えんがちょ」だ。触れるだけで汚れが感染する、汚染源みたいな話題――南京大虐殺は、既にそういうタームになっている。テーブルの両側に残っているのは狂信者のみ。一般人は一瞥を送ろうとさえしない。

レッテルとしてのフクシマ:日経ビジネスオンライン

ネットで一般人の議論が広く公開されるようになってから、建前というか挟持というか哲学というかプライドというか、なんかそういう水掛け論になるのを前もって抑える心理的なものが決定的に足りてない。
原発に賛成するなら福島の現状に対する解決案が必要だろうし、反対するなら電力とか生産力とかの部分に解決案が必要だろう。自説の都合の悪い部分に対するスタンスの問題だ。それをまるで無かっことのように話せる、面の皮が厚いだけの政治家みたいな不思議な生き物が増えてきたということなのか、元からいたのが見えるようになってきたのか。
テーブルにいるのは狂信者だけで一般人は無視を決め込むなら、当然何も決まらない。何も動かない。賛成でも反対でもないがその場を治める人とか、そういう人が増えないとなぁ。二項対立とか二元論キモい。このままだと何も決まらないということに気づいてどうにかする普通くらいに頭のいい人いないのかな。
僕はまぁ原発には反対。とりあえず福島の大熊町と双葉町をどうにかしろって話。郡山とかの遠いところじゃなくてさ。