使うことと遊ぶこと

●使えるということと遊べないということ
Palmは使えるために作ってあると思う。そう言う意味で楽しい。大人はゲームだけが楽しくて、勉強や仕事はつまらないとは思っていない。勉強を遊びにしないと間がもたない小学生は、キャラクターをつけるために実用性を削った文房具を使う。大人は実用性を削らずに飾られたものを使う。もしくは実用性を削るくらいなら飾りが全く無いものを使う。それがいつしか機能美として新しい文化を作ることだってある。
だからやっぱりPalmに大作ゲームや音楽を聴けるソフトはなくてもいいものだと思う。PDAの「A」はassistantのAだ。でしゃばらずに主役をサポートするのがアシスタントの役目である。PDAは手段であり道具であって目的ではない。そこから離れるなら、ほんとうにVisor Deluxeはたまに仕事にも使えるゲームボーイになってしまう。
ハンドスプリング社はマシンの外観に凝っても、中身をカラーにしたり遊び道具を付属させたりしない(*1)。それならバッテリーを持つようにしたり、モノクロ液晶の視認性を上げることにこだわって欲しいと思う。カラーよりモノクロの方が電池が長持ちするのは間違いない。しかも僕はモノクロで困ることが1つもない。おそらく、モノクロだからこそ考え出されたインターフェイスがあるだろうと思う。ハンドスプリング社は、色分けしてしまえば誰でも簡単に解りやすくできるものを、ユーザーがバッテリの心配などしないで快適に使えるようにモノクロで何とかしようとしているのだと思う。


●必要なものと必要じゃないもの
なくてもいい、ということはあってもいいということだ。アシスタントが笑いもしないつまらないやつよりは、ユーモアのある遊べるやつのほうがいいに決まっている。だから、もちろん音楽を聴けるソフトや奇麗なムービーを見ることのできる機能があってもいいとも思う。ただそれは、電子手帳を買ったら小型ラジカセがついてくる、わけのわからない通信販売のように、抱き合わせで売って欲しくないのだ。通信販売など、しまいには箪笥を買ったらもう1個箪笥がついてきたりする。だったら1個を半額で売って欲しいわけだ。7割くらいの値段でもいい。余分なものをつけて高く売るのは、企業本位でユーザーを馬鹿にしていると思う。
VisorシリーズにはSpringboard拡張スロットがあり、必要だと思った人が余分にお金を出せば、音楽を聴いたりネットにつなげたりできるようになっている。必要じゃない人は安い値段で基本的に必要な機能が手に入るのである。どれだけ足してあるかではなく、基本セットをどこまで削れるか。ただ機能を削っただけでは使い物にならないのは明白である。ユーザーは意味もわからず名画を買いあさったバブル期のじじいのように目新しさに左右されてしまうから、新機能を付けないと見捨てられるかも知れない。しかし必要じゃないものをつければ、ユーザーに無用な負担をさせるだけでなく、へたをすると物の良さが根底から曲がってしまう。だったら必要なこれとこれは付けておいて、あとは追加パーツにすればいい。そんなバランス感覚をもつプロフェッショナルが作ったマシンがVisorではないのだろうか。


●選択肢が多いことと自分の意志で選べること
僕は、選択肢が多いことが豊かなことであり、そこから自分の意志で選べることが自由だと思っている。モノクロマシンさえあればいいから、使えないカラーマシンなどこの世からなくなってしまえと言っているわけではない。カラーでバリバリの最新機能を搭載して、電池が1週間しかもたないものと、モノクロで基本機能だけを使っていれば半年くらい電池がもつものが同列で店頭に並び、正しい情報の元に必要に応じて選べる時代になってほしいということなのだ。どちらかが駄目なのではなく、用途に応じて使い分ける物なので、同じ視点で比べること自体が間違っていると思う。
多種多様な人間の生活すべてに対応できるマシンなどあるわけがないし、素人から見て何が違うのかさっぱりわからないマシンの乱立は、つまらない足の引っ張りあいであって進化ではない。そういう意味で、エンタテインメントに直結した高価なカラーマシンから安価でシンプルなモノクロマシンまでそろっているPalmOS搭載機の現状はかなり素晴らしい。


●使えるということと使われているということ
結局のところ、僕はやはりPDAマシンには時計や電卓のように、電池1本で半年とか1年レベルで動いて欲しいと思っている。それくらいで初めて使い物になるものだと思う。新品の電池を1本、スペアタイヤのようにセットしておけば、普段は電源の心配など全くいらないというような環境が欲しい。現状では充電式にして電池を交換させないことによってうやむやに誤魔化してはいるが、時計や電卓のようにバッテリーの効率がいいものの電源は電池であり、コンセントの呪縛からは完全に自由である。
そこまでしてはじめて、人間はPDAを「使える」ようになる。現時点ではまだまだ人間はPDAに「使われている」のだ。腹が減ったと泣いているPDAに振り回されて、文句も言わずに電気を与えている。PDAも赤ん坊だし、それを扱う人間もまだまだ新米の親なのだ。新米の親が子供をあまやかしてどうにもならない人間を育ててしまったり、逆にできそうなことをなんでも詰め込んで、子供の本来の能力を伸ばしてやることなく人生をめちゃくちゃにしてしまったり。そういったことがPDA界でも行なわれているような気がする。いや、PDAのお兄ちゃんであるパソコンでもそれは言えるだろう。
半年使えるPDA。それには現時点でカラーなどもってのほかだし、モノクロOSの完成度がPalmOSの足もとにすらたどり着いている他のOSはない。遊ぶのならまだしも、きちんと向き合って使うのならば、今のところモノクロPalmしかない。実はカラーマシンを買えない貧乏人のひがみ根性から生まれた発想なのだが、案外当たっているのではないだろうかと、僕はそう思っているのである。