フリーとシェア

●違法と犯罪
Palmにはわりとシェアウエアが多い。これはいい事だと思う。ソフトウエアにはヒラメキと技術と労力が詰まっている。それを使うのだから、なにか代償を支払うのは当り前だろう。金を払いたくないなら使わなければいい。もしくは他のもので払えばいい。使いたいけど金払いたくないというのは、犯罪者の1歩手前だ。金払ってないのに使っているのは立派な犯罪者だ。警察に見付かってないから犯罪ではないわけではない。法律に反してないから犯罪ではないわけではない。それは違法でないだけで犯罪なのだ。六法全書に書いてあるかどうかだけで判断できるほど、人間はちっぽけではない。
そもそもシェアというのは有料という意味ではない。占有率とか分け前という意味である。分け合うものなのだ。そのソフトのために何ができるか。アイデアを出す、バグテストをする、作者を応援する、作者をお金の面で支援する。そうして苦労や達成感を分かち合い、便利な環境を共に作っていく。実際、テストに参加した人は無料でソフトを使えたりする場合もある。お金だけが対価ではないのだ。


●ソフトの進化に関われる喜び
フリーウエアだからって何もしなくていいとは限らない。作者に感謝のメールを出したっていいし、バグがあれば報告したって構わない。Palm界には一筆啓上運動なるものがあって、作者にメールを出そうというなんとも人間らしい素敵な世界が展開されている。僕も感謝の意と希望する機能を書いたメールをとある方に出したのだが、フリーウエアなので無料で使っている僕に対して、丁寧な返事と機能追加の約束をしてくれたのだ。その時僕はこのソフトがシェアウエアになろうとも使い続けようと心に誓った。たとえバグがあったとしても文句をつけるのではなく、報告できる喜び、このソフトの進化に関われる喜びの方が大きいだろう。
こうなってくると何がフリーだかシェアだか解らないが、名前なんてどうでもいい。健全に回っている社会からは、とても素敵な環境が自然発生してくるということだ。作っている人と使っている人が双方ともハッピーというのは、それだけで素晴らしいことではないだろうか。作っている人がハッピーでなければ、作られるソフトもハッピーじゃなくなり、それを使う人もハッピーじゃなくなる。シェアウエアを無料で勝手に使っていると、アンハッピーな作者が自暴自棄になり、便利な環境の存在自体が無くなってしまうかも知れないのだ。


●シェアということ
フリーウエア王国のWindowsには、そんなもん人前に出すなと言いたくなるほどインターフェイスが最悪なソフトがごろごろしている。Palmのアプリはフリーと言えどもかなり使いやすい。それは、単純にアプリ数の多さということや、OSが何に向っているかという部分も作用しているだろうが、製作者と利用者の素敵な関係が築けていないというところも大きいと思う。Windowsは文化として未熟なまま急激に体だけが大きくなってしまってどうしようもなくなっているように見える。作るほうだってフリーだから何を作ってもいいというわけではないのだ。Palmでは通常の世界であれば競争相手であるはずの他の作家からのアドバイスもあるようで、全体が前を見て製作者や利用者の分け隔てなくソフトの進化に協力し、誰の特にもならない潰しあいが自然に回避されている。それが真の意味のシェアなわけだ。
ただ、Palmシェアウエアに1つだけ苦言を呈するとすれば、お金を払う窓口が限られているということだろうか。日本の作家さんでも、海外のサイトからしかお金が払えない場合があるので、仕方なく使用を断念しているソフトがいくつかある。送金代行してくれているところもあるが、それでもモレはあるのだ。お金払いたいのに払えないというジレンマはいかんともしがたい。
何もせずに便利な環境だけ手に入れられるのは乞食だけである。乞食に与えられるのは余り物だけである。きちんとしたものを受け取りたいのなら、きちんとした対価を払おう。必ずしもお金である必用はない。お金だけで全てを解決できると思っている人間や、乞食の技術を自慢するずうずうしい乞食ほどみすぼらしいものはない。